ヴィオラが奏でるバッハの無伴奏チェロ組曲
ゴールデンウィーク初日にあたる4月27日、宗次ホール(名古屋市中区)で日本を代表するヴィオラ奏者の一人である川本嘉子さんの演奏会を聴いた。
昨年12月、名古屋フィルハーモニー交響楽団の第397回定期演奏会で、川本さんのバルトーク『ヴィオラ協奏曲』を聴いて、その熱演に強い感銘を受けた。そのコンサートのパンフレットに折り込まれていた告知チラシで、今回の演奏会の開催を知った。
会場の宗次(むねつぐ)ホールは、申すまでもなく、全国チェーンのカレー専門店「CoCo壱番屋」の創業者である宗次德ニさんが2007年、私財を投じてつくったクラシック音楽専用ホールで、連日、ランチタイムコンサートを開催するなど積極的に企画事業を展開。若手音楽家の発掘・支援を目的とした「宗次エンジェルヴァイオリンコンクール」を開催するなど、クラシック音楽の発展とファンの拡大に日々尽力されている。
演奏会当日には、いつも玄関先で宗次さん本人が笑顔でお客さんを出迎え、休憩時にはドリンクコーナーで飲み物の給仕もされていて、こちらが恐縮してしまう。常連の人も多いのだろう、来場者の人たちと笑顔で気さくに歓談されている姿を見ると、「ああ、この人は本当に音楽が好きなんだなあ」と思う。ホワイエで販売されている音楽関係のグッズの多彩さやマニア度の高い掘り出し物CD販売コーナーにも、興味をそそられる。
さて今回は、J.S.バッハ(1686~1750)の『無伴奏チェロ組曲(BWV 1007~1012)』全6曲が一夜で演奏されるという聴き応えのある演奏会。通常の演奏会では、せいぜい3曲程度なので、全曲を一気に聴ける演奏会というのは、大変お得でもある。
今回のプログラムは、はじめに「第1番」と「第5番」。休憩(15分間)を挟み「第4番」と「第3番」が続き、2度目の休憩を経て、最後に「第2番」&「第6番」が演奏されるという曲順になっている。曲の性格を考慮した上での、バランスの良い組み合わせだ。
ご存知のようにバッハの『無伴奏チェロ組曲』は6つ残されていて、それぞれアルマンド・クーラント・サラバンド・ジーグという4つの舞曲を中心に、6曲で1つの組曲が構成されている。川本さんは、それら6曲を間断なく演奏するので、「組曲」というより、次々とエピソードが展開してゆく単一楽章の「幻想曲」のように感じられる。各曲は15分程度という早めのテンポで演奏されたが、弾き飛ばしているという印象はなく、細部のニュアンスも豊かである。音域がチェロより1オクターブ高いので、チェロのような重厚さは求められないが、音の動きが機敏で、流れるようなフレージングが特徴となっている。今日の演奏会は、アンコール曲も含めて約2時間半(休憩時間を除けば実質2時間程度)。もっと長丁場になるかと思っていたが、演奏会の規模としては普通の長さに収まった。
最初に演奏された「第1番」は、6曲の中で最も明朗快活な曲として知られるているが、ヴィオラによる演奏はその印象に拍車をかける。だが、続く「第5番」では曲の表情が一転、冒頭から彫りが深く、厳しい音楽が奏される。その不意打ちを食らったかのような強烈なコントラスト! この心理的なインパクトも、今回のプログラミングの効果であろう。
ちなみにこの「第5番」という曲は、僕にとって全6曲中、最も距離を感じる(←嫌いという意味ではない)作品。昔、ロストロポーヴィチのリサイタルでこの曲を聴いたことがあるが、あの「チェロの神様」でさえ、終始、弾きにくそうで、重音もかすれ気味だったため、その後の印象がよくない。それが今回はヴィオラによる演奏ということもあってか、響きの見通しがよく、曲独特の渋みが適度に抑えられ耳になじむ。「第6番」のガヴォットⅡではミュゼット(バグパイプ)の響きが模写されるが、ヴィオラだと、よりそれに近い効果が得られる。
反面、チェロとの違いが大きく感じられる場面もあった、例えば「第4番」の終曲ジーグは僕の大好きな曲だが、チェロのように低音をブンブン効かせた、たくましい推進力は感じられない。最も勇壮な曲想を持つ「第3番」では、チェロのようなスケールの大きさを期待すると裏切られる。むしろゆったりとしたサラバンド楽章において際立つ、重音を伴う荘厳なメロディーの響き(「第2番」も同様)を味わうべきなのだろう。
今回の熱演をいっそう引き立てるのが、ホールの音響の美しさである。もちろん設計段階で十分に計算されているのだとは思うが、実際出来上がってみたら想像以上の音響空間が生まれたかのような、そんな印象を抱いている。何回かの演奏会を聴いて実感していることだが、紛れもなくトップクラスだと思う。ホールに広がる残響の見事さ!視覚から感じるステージとの距離以上に、客席へ届く音にはリニアリティがある。これからも末永く、地域の宝として親しまれていってほしいと切に願っている。
ところで『無伴奏チェロ組曲』といえば、何と言ってもパブロ・カザルスの演奏が忘れられない。長年埋もれていたこの曲を発掘した功績とともに、研究の成果に裏付けられた深みのある演奏が素晴らしい。音楽学者の皆川達夫氏が「この作品に関して、私にはカザルスの演奏をおいて他に考えられない。<古いスタイル><表現過多> 何と罵られようと、これだけは絶対なのである」と述べておられるが、まさにそのとおりだと思う。1936年から1939年にかけて録音されたモノラルの古い音ながら不満を感じることはない。最近はシングルレイヤーのSACDが発売され、評判もすこぶるよいと聞くが買い換えるつもりはない。この演奏の価値は、音の良し悪しを超えたところにあると思っているからだ。
他にもトルトゥリエの新旧盤、ロストロポーヴィチ、ビルスマ、ブルネロなど数多くの名手によるCDを聴いてきたし、最近では、肩にかけて演奏するヴィオロンチェロ・ダ・スパッラによる寺神戸亮の演奏も大きな話題になった。ヴィオラによる演奏では、今井信子盤も定評があるが、最近は、ツイッターのフォロワーの方から教えていただいたジェラール・コセの演奏を繰り返し聴いている。ヴィオラの名器ガスパロ・ダ・サロによる温かみのある演奏はもちろんのこと、残響豊かな録音も雰囲気があって素晴らしい。
Bach: Suites de danses(ヴァージン・クラシックス:輸入盤)
バッハの『無伴奏チェロ組曲』は、この分野における代表的な作品であり、日ごろ耳にする機会は圧倒的に多い。オーケストラコンサートでも、協奏曲のソリストがアンコールピースとして取り上げることもしばしばだ。しかし、今回のように全6曲を一夜で聞く経験は初めてだったし、今後、そう何回も巡ってくることはないだろう。演奏者にとっても、体力や集中力を消耗させる試みであることは間違いない。実際、川本さんも、演奏会終了後のサイン会で「大変よ~」と話していた。
今回は、6つの曲が持つそれぞれの個性的な特徴とその魅力を堪能するとともに、この作品が名曲中の名曲であることをあらためて思い知ることができた貴重な演奏会であった。
【参考映像】
カザルスによる『無伴奏チェロ組曲』から「第1番」
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