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2011年4月

2011/04/10

ブラームスが聴いた筝の調べ

桜舞う春の一日、大垣市守屋多々志美術館へ企画展「春・桜 花づくし」を見に出かけた。


Moriyatadashimuseum


守屋多々志(もりや・ただし 1912~2003)は岐阜県出身の日本画の大家のひとりで、高校卒業後上京し、同郷の前田青邨に入門、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に学んだ。法隆寺金堂や高松塚古墳の壁画の再現模写などの業績とともに、歴史画を中心として数多くの素晴らしい作品を残している。

今回、この美術館を訪れた一番の目的は、彼の代表作のひとつである『ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)』に会うためである。

1992(平成4)年に発表されたこの作品は、四曲一双の屏風に描かれていて、向かって左二面に描かれた筝を奏でるうら若き極子夫人、そして右には、眼を閉じて音に耳を傾ける老境のブラームス。立ち上る一筋の香の煙り、そして2人の間の絶妙な空間・・・。この傑作を目にするのは、おそらく大垣での初公開時以来となるが、改めて深く感銘を受けた。


Moriyatadashibrahms


西欧の大作曲家と日本の伝統音楽との出会いという、このエポックメイキングな出来事が知られるようになったのは、実はそれほど昔のことではない。

1980年代の半ば、ウィーン楽友協会が所蔵するブラームスの遺品の中にあった一冊の本を、同協会の音楽資料館館長であったオットー・ビーバー氏が発見した。それはハインリッヒ・フォン・ボクレット(1850~1926)による『日本民謡集』(原題は『Japanische Volksmusik(日本の民族音楽)』)で、日本の民謡をピアノ用に編曲した楽譜集である。

特筆すべきことは、この発見された楽譜にブラームス自身が鉛筆で書き込んだメロディーやハーモニーの訂正箇所が多数見られることである。それはブラームスがこの楽譜を、原曲の音と照らし合わせながら、加筆修正を行ったことを示している。

この楽譜集を出版したボクレットは、当時、ピアノ教師としてウィーンの上流階級の間でよく知られた音楽家だった。彼は旧大垣藩主で、当時、日本のウィーン駐在の公使だった戸田氏共(とだ・うじたか)伯爵家の子女の教師をしていたといわれるが、そこで彼は日本の伝統音楽に出会うことになる。

伯爵夫人である極子(きわこ)は、岩倉具視の次女として生まれ、幼少のころから山田流筝曲をたしなみ、その腕前は折り紙つきであったと伝えられている。伯爵邸内から聞こえてくる極子が演奏する筝の音色に、ボクレットが強い感銘を受けたであろうことは想像に難くない。

この楽譜集は当時、五線譜による楽譜が存在しなかった日本の曲をボクレット自身が採譜したもので、「宮様」「ひとつとや」「春雨」「六段」「みだれ」の5曲からなる。出版当時「ウィーン新音楽時報」の書評欄で、かの有名な評論家ハンスリックによって取り上げられ、絶賛されたという。

またブラームスは、有名な『ハンガリー舞曲集』や140曲を超える『ドイツ民謡集』などからも分かるとおり、生涯にわたって民族音楽に強い興味を示した作曲家としても知られているが、この『日本民謡集』で日本の音楽に興味を抱いた彼は、ボクレットの紹介か、あるいはウィーンの社交界の場で戸田極子の演奏する筝曲を聴いたと考えられる。その出会いは、楽譜集が出版された1888年から、戸田伯爵が帰国する1890年7月までの間となる。

この歴史的発見を、ビーバー氏から連絡を受けたお茶の水女子大学の大宮真琴教授(音楽学)が、更なる調査を行い、1985年にウィーンで発表。翌年には日本の新聞でも取り上げられ、ロマン派を代表する大作曲家ブラームスと日本とを結ぶ出来事に、大きな話題となった。

Brahms02

当時のブラームスは50歳代半ばとなり、すでに4曲の交響曲や協奏曲などを書き終え、自らの老いを自覚しつつあったころである。もし彼が、これらの日本の音楽にインスピレーションを受け、作品にその痕跡が残されていたとしたら・・・。そんな妄想をめぐらしながら、晩年のクラリネットのための一連の作品やピアノ曲集を聴くのも一興ではないだろうか。

【参考文献】
『ウィーンと大垣を結ぶ音楽のかけ橋』(大垣市)

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