« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月

2010/09/26

いま改めて『ファウスト』について考える

今回は、戯曲『ファウスト』とその魅力について考えてみたい。

『若きウェルテルの悩み』や『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などの小説で知られるドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)の戯曲『ファウスト』は、ドイツに古くから伝わる伝説を基にして、彼の豊富な知識や経験、その思想の全てを織り込んだ畢生の大作である。

1770年、ゲーテ21歳の時に執筆に取りかかり、1806年に第1部を完成。続く第2部にいたっては、死の前年の1831年、81歳のときに発表されたという、まさしく生涯をかけた作品であった。

Goethe

優れた詩人でもあった彼の作品は、シューベルトの歌曲『魔王』や『野ばら』をはじめ、多くの作曲家に多大なインスピレーションを与えてきたことでも知られるが、この『ファウスト』もその例にもれず、ベルリオーズやシューマン、グノーやマーラーなどの心をとらえ、数多くの名曲が生み出されることになった。ゲーテと親交のあったベートーヴェンも、1809年に歌曲『蚤(のみ)の歌』を作曲しているし、晩年には、この戯曲に基づいた付随音楽を作曲するプランさえ持っていたとされる。

何がそこまで作曲家たちの心を惹(ひ)きつけてきたのだろうか・・・。この名著に出会って四半世紀が過ぎた今、長年抱き続けてきた疑問とともに、今回ふとした出来事がきっかけで、改めてこの作品と向かい合うことになった。

この『ファウスト』の各場面においては、音楽の存在が重要な要素となっている。例えば、菩提樹の下で繰り広げられる「農夫たちの踊りと歌」や、糸車を繰(く)りながらファウストを想って歌う乙女マルガレーテの場面、そして物語終盤のワルプルギスの夜の情景など、まるで行間から音楽が聞こえてくるような錯覚に陥ることがある。それは作曲家にとって、創作意欲を刺激されるものであろうことは、想像に難くない。

また、優れた作品は悪役も魅力的だといわれるが、この『ファウスト』も例外ではない。何より悪魔メフィストフェレスの存在感が途方もなく素晴らしいのだ。

物語の冒頭でゲーテは、神の台詞を通して、悪魔の存在を次のように定義する。

わしは一度もお前の仲間を憎んだことはない。
およそ否定を本領とする霊どもの中で、
いちばん荷厄介(にやっかい)にならないものは悪戯者なのだ。
人間の活動はとかく弛(ゆる)みがちなもので、
得てして無制限の休息を欲する。
だからわしは彼らに仲間をつけてやって、
彼らを刺激したり促したり、悪魔としての仕事をさせるのだ。

そこで悪魔メフィストフェレスは、神との賭(かけ)を申し出る。「あなた(神)のしもべであるファウストを堕落させることができたら、彼を自分の好きにさせてもらいたい」、と。神は、悪魔の存在がファウストを人間として成長させてゆくと信じて、疑いもなくこの申し出を承諾する。

本編ではメフィストフェレスが、さまざまな手段や言葉によってファウストを堕落の道へ引きずり込もうとするが、その台詞一つひとつに強い説得力がある。一方、主人公であるはずのファウストの言動が、いかにも小難しく強欲で、わがままな男に見えてしまうのだ。いきおい読者は、ファウストにではなく、メフィストフェレスに人間的な魅力を感じ、より共感を深めていくことになる。

このあまりに魅力的な悪魔を主人公にして、イタリアの作曲家ボーイトは歌劇『メフィストフェーレ』を作曲しているし、リストは『メフィスト・ワルツ』を4曲(未完を含む)も作曲している。

ゲーテは神の言葉を借りて言う。

「人間は、努力をする限り、迷うものだ」

まさにこの台詞こそが、この作品全編に流れ続けるテーマ(命題)であり、作曲家たちは、そのテーマを「通奏低音」としながら、音を編み込んでいったのであろう。

Faustbook

率直に言えば、文中、いくつかの場面において違和感を感じる部分があったことも事実である。比喩や引用が多い上に、作品で描かれる時代背景が、現代と大きく異なり、リアルタイムで作品に接した人と比べて、感動や共感の度合いがスポイルされるのは仕方ないと思う。また、場面転換の前後において、物語が大きく展開している箇所かいくつかあるので注意を要する。

しかし、そうした点を割り引いても、作品に描かれるスケールの大きな人間ドラマは、現代に生きるわれわれも十分に楽しめるし、考えさせられることの多い名作であることに疑問の余地はない。多くの作曲家が創作意欲をかき立てられたであろう抗しがたい魅力の一端に、触れることができたような思いであった。


【追記】
リストの『メフィスト・ワルツ第1番』です。


【参考文献】
ゲーテ『ファウスト』 相良守峯訳(岩波書店)

※今回は第1部のみの書評となっています。


2010/09/11

森麻季の魅力とその可能性

今回は、どうしてもこの希代のソプラノ歌手について書かなければならない。


Morimakicd2


現在、日本でもっとも輝いているソプラノ歌手のひとりとして、「森麻季」の名をあげることに異論のある人はいないだろう。

僕も、以前よりテレビ放送で「第九」や「マラ四」をはじめとしたオーケストラ曲やソロリサイタル番組などを通じて彼女の歌を聴いてきたし、数年前、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』で、ゾフィー役の好演(特に終幕の3重唱~2重唱!)が記憶に新しい。そして、昨年初めて、岐阜市のサラマンカホールで生の歌声に接して、その表現力と聴衆を楽しませるステージングにすっかり魅了されてしまった。

そんな流れで出かけた、昨日の愛知県芸術文化センターのコンサートホールで開催されたリサイタルである。

プログラムの前半では、今年生誕200年を迎えたシューマンの歌曲をメインとしたプログラム。歌詞となった詩の朗読に続けて歌を歌うという、新たな試みであったが、当日のリーフレットに掲載されていた和訳よりも、より口語的で、感覚として理解しやすく効果的だった。

休憩を挟んだ後半では、衣装が変わり会場から歓声が沸く。美しい容姿も彼女の魅力のひとつだ。
プログラムは、3人の作曲家による『アヴェ・マリア』を経て、歌劇『椿姫』の「花から花へ」と続き、アンコールの3曲で、聴衆の熱狂は頂点に達した。

相変わらずプレーンで透明感がある歌声、コロラトゥーラの音程の正確さ、特に、ピアニッシモ部分の細やかなボイスコントロールは圧倒的で、その魅力を表現する適切な言葉が見つからないのがもどかしい。
山岸茂人のピアノ伴奏も、終始、曲の性格に沿った適切な表現で好感が持てたし、歌曲の合間のピアノソロ曲も、全体のよいアクセントになっていたと思う。

今回は、1800席というホールでのリサイタルだったが、前から10列目、ほぼ中央のという恵まれた席で聴けたこともあってか、曲を歌い終えるごとに、ほんの一瞬、彼女の頭上に残る声の波紋(輪)を感じることができるという経験は、音の良いホールで聴くライブならではのこと。
CDや放送番組を鑑賞するのもよいが、こうした経験は優れた歌い手のリサイタルでしか遭遇し得ないものであり、彼女の真の魅力を知るためには、ぜひ演奏会に行くべきだと、あえて申し上げたい。


Morimakileaf


今回のリサイタルも、期待を上回る素晴らしいものであった。
帰りのエレベーターの中で、「いいものを聴かせてもらった。これでまた明日から頑張れるね」と話していた初老の女性グループの言葉が、すべてを物語っていると言ってよい。

おそらく多くの日本人が抱いているであろう、「ソプラノ歌手」とか「オペラ」という言葉から連想される、ステレオタイプで否定的なイメージを覆すほどの力が彼女にはある。また、それが天から与えられた重要な役割のひとつではないかと、僕は勝手に思っている。

海外でも、アンジェラ・ゲオルギューやアンナ・ネトレプコをはじめとした、美しい容姿と音楽的才能に恵まれた人たちが活躍しているが、何よりも日本が生んだ、この素晴らしいソプラノ歌手の活躍を、これからも応援し、見守っていきたい。


※敬称は省略させていただきました、何とぞ、ご了承ください。


« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2016年10月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

Twitter

無料ブログはココログ

Amazon ウィジェット

  • ウィジェット