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2005/02/19

山田耕筰 交響詩『曼陀羅の華』

日本における西洋音楽の草分け的存在であり、国際的にも幅広く活躍した音楽家、山田耕筰(やまだ・こうさく、1885~1965)の名を知らない人は、おそらくいないだろう。
彼は作曲家や指揮者としてだけでなく、学校の教科書や専門書を数多く著すなど、日本の音楽教育の発展に多大な功績を残している。

Yamada

作曲家としては、歌劇やオーケストラ曲をはじめ、室内楽曲やピアノ曲など、幅広い分野で作品を残しているが、何といっても、歌曲における優れた業績は特筆すべきものがあり、『赤とんぼ』や『待ちぼうけ』などの童謡をはじめ、三木露風や北原白秋との共作により、数多くの優れた芸術歌曲を残している。

彼は、日本語の持つ抑揚(それはあくまで、関東地方のアクセントであるが)を、そのままメロディーに乗せることを重要視していて、その代表的な例といえるのが、名曲『からたちの花』である。

13歳のとき、姉の夫となった英国人のエドワード・ガントレット(日本にエスペラント語を紹介した人物でもある)から西洋音楽や英語、速記術などを学ぶうちに音楽家になることを決意し、1904年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)に入学、1908年に卒業する。

その後、三菱財閥の四代目総帥であった岩崎小弥太(弥太郎の甥)の知遇と経済面での援助を得て、1910年、ベルリン音楽学校に留学し、ブルッフやフンパーディンクなどに作曲を学ぶ。
1912年には日本人初の交響曲となる『かちどきと平和』などを作曲するが、本人としては、この留学経験は必ずしも十分に満足のいくものではなかったようである。

しかし、1913年の暮れ、日本へ帰国の途上、モスクワに立ち寄った際、モスクワ大学の学生が弾いたスクリャービンの『詩曲』に強い衝撃を受ける。彼の『自伝 若き日の狂詩曲』(中公文庫)には、そのときの衝撃が、次のように記されている。

スクリャァビンの音楽。それは私を烈しく撃った。が、彼の描く音楽の世界には、なぜか私自身も住めるような気がするのだ。その音のなかには私の顔も映るのである。(原文ママ)

ベルリンで学び、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスなどの音楽に親しみながらも、何か違和感を否めなかったといわれる彼が、この出来事をきっかけに、後年、『スクリアビンに捧ぐる曲』というピアノ曲を作曲するほど、スクリャービンに傾倒することになるのである。(残念ながら、両者がまみえる機会はなかった)

さて、今回取り上げる『曼陀羅の華』は、1913年、留学先のベルリンで作曲され、翌年、作曲者の指揮により日本で初演された交響詩であるが、ハープのグリッサンドからはじまる導入部から、まるでスクリャービンの『法悦の詩』のような音世界が繰り広げられる。作曲当時、スクリャービンの音楽に触れる機会はなかったと思われるが、山田耕筰の持つ音楽的志向が、無意識のうちに現れたものであり、非常に興味深い。

曲は、作曲者の親友であった画家、斎藤桂三(さいとう・かぞう)が父の死を予感して書いた詩にインスピレーションを得て書かれたもので、彼のオーケストラ作品の中では最も親しみやすく、演奏会でもたびたび取り上げられている佳作である。

演奏時間は約8分

【お薦め盤】
外山雄三指揮、NHK交響楽団(CBSソニー)

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